Mag-log in雪乃は顔を上げると、まず和真の目を見た。そこには、怒りも責めるような色もなかった。それがかえって苦しかった。これまでずっと、自分は間違ったことをしていると分かっていた。それでも康太を守るためには、ほかに方法がないと思い込もうとしていた。けれど今、すべてを知った和真を前にすると、自分のしてきたことの重さが、胸にのしかかってくる。雪乃は深く頭を下げた。「騒ぎを起こして、申し訳ありませんでした」声が震えそうになるのを、必死に堪えた。顔を上げると、再び和真と目が合った。和真はフッと笑うと、雪乃の顔を見ながら言った。「心春を泣かせずに済んで良かったよ」その言葉に、雪乃は一瞬、何も言えなかった。責められると思っていた。もっと厳しい言葉を浴びせられても仕方がないと思っていた。なのに、和真が最初に口にしたのは、自分への怒りではなく、妻である心春を思う言葉だった。――この人は、本当に優しい人なのかもしれない。昔、ほんのわずかに見ただけだった和真の印象とは、あまりにも違っていた。雪乃は小さく息を吐き出し、頷いた。そしてもう一度、深く頭を下げる。「皆さんにも申し訳ありませんでした」しばらく頭を上げられなかった。ようやく顔を上げると、雪乃は大きく息を吸い込んだ。ここまで来たのだ。もう、隠してはいけない。康太のためにも、自分自身のためにも。雪乃は震える胸を押さえるようにして、事の次第を話し始めた。二十代の頃、壮真と出会い、交際をしていたこと。神崎家が傾いてしまったとき、壮真が自分を捨てて鳳条の娘と結婚してしまったこと。十年後に再会した壮真と、再び関係を持ってしまったこと。そして康太を身ごもり、壮真から「産んでくれ」と言われたこと。あのときの言葉を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。自分は愛されている。そう信じたかった。康太が生まれれば、壮真もきっと自分たちを守ってくれる。そう思っていた。けれど、現実は違った。康太を産んだ途端、玲子の助言によって、雪乃は康太と二人で放り出された。あまりにも突然だった。信じていたものが、音を立てて崩れていくようだった。雪乃は、そのときの恐怖も、悔しさも、絶望も、すべて包み隠さず話していった。その間、誰も口を挟まなかった。静かな部屋に、雪乃の声だけが響いていた。すでにすべてを知っていた
ソファに腰を落ちつかせ、綾乃の隣で縮こまっていた雪乃も、少しだけ顔を上げてこの部屋に集まった面々を見わたした。部屋は広く、調度品の一つ一つからも、この家が普通の家庭とは違うことが伝わってくる。それだけに、雪乃は落ち着かなかった。自分がこんな場所にいることそのものが場違いに思え、無意識に両手を膝の上で固く握り締めていた。先日、九条ホールディングスで会った、九条叶翔。そして自分の向かいに座る、九条玲司。どちらも雪乃にとって、簡単に目を合わせられるような相手ではなかった。特に玲司から向けられる視線には、これまで感じたことのないほどの威圧感がある。玲司の隣に座る優雅な女性には見覚えがなかったが、その隣に座る男性―――自分が康太の父親だと言った、神崎和真にはかすかに見覚えがあった。もう何十年も前に会ったきりだ。それなのに、顔を見た瞬間、記憶の奥にしまい込んでいた遠い日の光景が蘇ってくる。若い頃の面影を残しながら、和真は驚くほど若さを保った容姿をしていた。年齢を重ねたはずなのに、疲れや老いをほとんど感じさせない。雪乃は思わず、和真の顔をじっと見つめてしまった。―――壮真さんとは大違いね。そんな場にそぐわない感想が、ふと頭に浮かぶ。同じ神崎家の人間なのに、これほど違うものなのか。雪乃は慌てて視線を逸らそうとした。しかし、和真が自分を見ていることに気づき、また目が合ってしまう。その場の緊張した空気にそぐわない感情で、雪乃は和真を見つめてしまった。自分が何を考えているのか悟られたくなくて、雪乃は小さく俯いた。先ほど最初にこの部屋のドアを開けてくれた執事のような男性が、雪乃の前にコーヒーを置いた。立ち上る湯気から、香ばしい香りが漂ってくる。雪乃は小さく頭を下げたが、言葉を発することをしなかった。こんな状況で、のんびりコーヒーを飲めるような心境ではない。カップに触れることさえできず、雪乃はただ両手を膝の上に置いたまま、静かに座っていた。その男性が、静かに部屋を出て行った瞬間だった。九条叶翔が立ち上がった。部屋にいた全員の視線が、一斉に叶翔へ向けられる。叶翔はその視線を気にする様子もなく、落ち着いた表情で全員を見渡した。「みなさん本日はお集りいただき、ありがとうございます。さっそくですが、本題に入りたいと思います」叶翔がそう宣
九条本邸の玄関を入ると、雪乃は思わず足を止めそうになった。広々とした玄関。磨き上げられた床。静かに佇む調度品。どれもこれも、自分がこれまで暮らしてきた世界とはかけ離れている。―――ここが、九条家……。以前、九条ホールディングスで玲司や叶翔と顔を合わせたことはあった。けれど、実際に九条家の中へ足を踏み入れると、その家が持つ重みを改めて感じてしまう。雪乃は、自分の服装を無意識に確認した。変ではないだろうか。場違いではないだろうか。そんな小さなことまで気になってしまう。何より―――。これから自分が向かう部屋には、九条玲司がいる。鷹宮心春もいる。そして、和真も。そのことを考えるだけで、心臓が早鐘のように鳴った。雪乃は、自分でも顔が強張っていることに気づいた。目の前を歩いていく瑛士の背中を見つめながら、必死に足を動かす。しかし、心の中では別の声が何度も囁いていた。―――怖い。―――このまま帰ってしまいたい。一歩進むたびに、その誘惑が強くなっていく。ここまで来たのだから、もう逃げるわけにはいかない。そう思っているのに、足は鉛のように重かった。もし、心春から責められたら?もし、和真から憎しみの目を向けられたら?当然だ。自分は一度、康太を和真の子供だと言った。そのせいで、何も悪くない心春を傷つけてしまった。謝らなければならない。そう思う気持ちと、怖いという気持ちが胸の中でぶつかり合っていた。やがて、瑛士が大きな扉の前で立ち止まった。振り返った瑛士と目が合う。雪乃も足を止め、思わず息を飲んだ。この扉の向こうに、すべての答えがある。十年間、抱えてきた秘密。康太の父親。そして、自分たち親子のこれから。雪乃は唇をきゅっと結んだ。―――大丈夫。―――康太のために、逃げちゃいけない。瑛士が扉をノックする。コン、コン―――。その音が、静かな廊下に大きく響いた。やがて中から扉が開き、執事のような男性が顔を見せる。男性は雪乃の姿を認めると、部屋の中へ声を掛けた。その瞬間、雪乃の胸が大きく跳ねた。いよいよだ。瑛士は雪乃に一礼すると、そのまま玄関の方へと歩いて行ってしまった。雪乃はその後ろ姿を見送った。「ありがとうございました……」小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。瑛士の姿が見えなくな
夜七時。すっかり日が落ちた街を、タクシーが静かに走っていた。後部座席に座る雪乃は、隣にいる康太の小さな手を握ったまま、何度も窓の外へ視線を向けていた。康太は何も知らない。今日、これから何が話し合われるのかも。自分がその中心にいることも。雪乃は、そんな息子の横顔を見るたびに胸が締めつけられるようだった。―――この子だけは、何も知らないままでいてほしい。十年間、自分一人で康太を育ててきた。苦しいことも、悔しいことも、何度もあった。それでも、康太の笑顔だけを支えにして、ここまで生きてきた。今日、その生活が大きく変わるかもしれない。そう思うと、握っている康太の手に自然と力が入った。「お母さん?」「……何でもないわ」雪乃は慌てて微笑んだ。「もうすぐ着くからね」やがてタクシーが停まり、雪乃は料金を支払って外へ出た。目の前に広がった光景に、雪乃は思わず息を呑んだ。広大な土地。そして、その敷地の中には二軒の豪邸が並んで建っている。夜の照明に照らされた建物は、まるで別世界のものだった。ここが―――九条家。以前、自分が訪れた九条ホールディングスとは比べものにならないほどの、圧倒的な存在感。雪乃は思わず康太の手を握りしめた。―――本当に、ここへ来てしまった。一度は和真の子供だと言ってしまった康太。そして、そのことで心春を傷つけた。その事実を思えば、ここへ足を踏み入れることさえ怖かった。インターホンを押さなければならない。それなのに、指が動かなかった。雪乃は門の前に立ったまま、ただ黙って豪邸を見つめていた。「お母さん、どうしたの?」康太が不思議そうに見上げてくる。雪乃は小さく首を振った。「ううん……何でもないの」そう言いながらも、心の中では何度も自分を奮い立たせていた。―――逃げちゃ駄目。―――今日は、きちんと話をするために来たんだから。そのときだった。門の内側から、若い女性が歩いてくるのが見えた。そして、優しげな声で声を掛けてくれた。「神山雪乃さんと康太くんですか?」突然声を掛けられ、雪乃は驚いて顔を上げた。けれど、その女性の柔らかな笑顔を見ているうちに、強張っていた表情が少しずつ緩んでいった。「はい……」女性は頷くと、門の中へと促してくれた。「どうぞ」雪乃は一瞬ためらった。けれど、もう戻
鷹宮ホールディングス―――。その日の社長室には、いつもとは違う重苦しい空気が漂っていた。和真は社長デスクの前に座ったまま、窓の外へ視線を向けていた。高層階から見下ろす街は、いつもと変わらない。人々が行き交い、車が流れ、ビルの窓には午後の光が反射している。それなのに、和真の心は少しも穏やかではなかった。―――今夜、すべてが決まる。神山雪乃と康太。そして、心春。もしも検査結果が思いもよらないものだったら……。そこまで考えたところで、和真は小さく息を吐いた。「失礼します」ノックの音が響き、秘書の顔がのぞいた。「社長、会長がお呼びです」「わかりました」和真は椅子から立ち上がった。胸の奥に残る不安を押し込めるように背筋を伸ばし、秘書について会長室へと向かった。会長室の扉を開けると、鷹宮正隆が書類を読んでいた。和真の姿を確認した正隆は顔を上げ、秘書に向かって小さく頷いた。秘書は一礼すると、静かに部屋を出ていった。扉が閉まる。二人きりになった途端、部屋の静けさが妙に耳についた。正隆は和真に座るよう促し、自分もソファの向かいに腰を下ろした。しばらく和真の顔を見つめたあと、正隆が口を開く。「今夜の集まりには私は参加しないことにした。すべて綾乃に一任してある」和真は頷いた。「はい」短い返事だった。だが、その胸の内には、正隆への申し訳なさと感謝が入り混じっていた。自分が神崎家を出て、鷹宮家に入った。その決断を受け入れてくれたのも正隆だった。だからこそ、今回の騒動で鷹宮家に迷惑をかけることだけは避けたかった。和真は正隆の目を見つめた。「ボクにはやましいことはありません。あの女性のことも、記憶にすらないんです」自分でも何度も考えた。十年前のこと。女性関係について、記憶をたどってみても、雪乃という女性に覚えはない。だからこそ、今回の話にはどうしても腑に落ちないものがあった。正隆は、そんな和真の言葉を手を上げて止めた。「和真、昔のことはどうでもいいんだ。お前だって、ずっと独身を貫いてきただろう。しかもお前はその容姿だ。いろいろな女性から言い寄られることもあったと思う。同じ男として、そのことを責めるつもりはない。ただ、こういった事件が起きたとき、どう処理するかがお前の器量だ。しかも今回は、神崎の息が掛かっている気がする。
神山雪乃も、康太を学校へ送り出してから、ずっと落ち着かなかった。朝食の後片付けをしても、洗濯物を畳んでも、時計の針ばかりが気になってしまう。何度もスマートフォンに目を向けては、まだ何も連絡が来ていないことを確認する。今日という日が来ることは、わかっていた。それなのに――。いざ、その日になってみると、胸の奥が押し潰されるように苦しかった。康太は確かに壮真の子である。それだけは、雪乃自身が誰よりもよくわかっている。十年前のあの日。康太をこの腕に抱いたときのことを、雪乃は今でも鮮明に覚えている。だからこそ、信じたい。いや、信じるしかない。しかし、例え今の技術を以てしても、壮真の子か和真の子か判明しなかったら―――。そう考えるだけで、心臓が早鐘のように鳴った。もし、結果が「和真の父親である可能性を否定できない」というものだったら。自分は、どうすればいいのだろう。その瞬間、雪乃の脳裏に先日の心春の怯えたような瞳が浮かんだ。あの、蒼白な顔。必死に感情を押し殺そうとしていた瞳。自分を見つめていた、傷ついた眼差し。思い出しただけで、また胸が痛んだ。例え玲子に焚きつけられたとしても、あんなに若い女性を傷つけてしまった。ただ、その時の雪乃は、自分にも味方が欲しかった。一人で康太を育て続けることに疲れていた。玲子に「養育費を渡せなくなる」そう言われて追いつめられていた。だから――。自分と康太を守るために、和真という後ろ盾を得ようとした。けれど、それは自分にとって都合のいい言い訳にすぎない。雪乃が壮真に「本当に俺の子なのか?」そう言われたときと同じくらい、心春にとってはツライ思いをさせてしまった。雪乃は両手を握りしめた。もし、自分が心春の立場だったら。夫に突然、自分の知らない子供が現れて、その子供の母親から「あなたの夫の子供です」と言われたら――。きっと、平静ではいられない。自分なら、心春のように耐えられただろうか。そう考えると、胸がさらに苦しくなった。雪乃は綾乃の姿を思い出していた。自分が康太のことで彼女の娘を傷つけたというのに、綾乃は雪乃を責めなかった。むしろ、自分の話を最後まで聞いてくれた。パフェまで一緒に食べてくれた。そして、雪乃と康太の将来を心配してくれた。自分なら、康太が同じ目にあったとしたら、そ







